2017/11/21

これって遊び? いじめ?

自分でのりこえていく体験ができるように

子どもたちの遊びに寄り添う
子どもたちの遊びに寄り添う

遊びなのかいじめなのか、区別しにくいのが幼児期です。竹の子幼稚園の子どもたちは、さまざまな体験を通して学び合いながら生活しています。その中で私たちは、どんなことをしたら友だちが傷つくのかを知らせています。もし「いじめる」「いじめられる」という気配を感じたら、自分でのりこえていく体験ができるように援助します。幼児期は、自分で何とかしようと素直に努力できる時代なのです。子どもたちの仕草や表情、つぶやきに耳を傾け、寄り添う毎日です。

大人の介入がゆさぶる子どもの関係

年長の子どもたちに「いじめられたことはある?」と聞くと、たいていの子は「あるよ」と答えます。そのほとんどは「叩かれた」「貸してくれない」「取られた」といった内容です。これらは、幼児の生活にはつきものです。しかし最近では、1回でもそんなことをされると「いじめられた」という認識になってしまいがちです。2、3回と続くと「もうあの子とは遊ばないように」といった、大人の介入が子どもの関係をゆさぶることも出てきます。「やる、やられる」という関係だけで簡単に「いじめ」と決めつけてしまうのは、子どもの育つ力を萎縮させてしまうでしょう。

子どもの内面に気づいて受け止める

少し極端なケースになりますが、園生活の一コマを紹介します。
ごっこ遊びで、よく犬役にさせられる子がいました。そこでつい感情的に「いつも犬役なんて、交代したら……」などと口を出して、大失敗したことがあります。「みんなと一緒に遊びたくて、そのために犬にさせられているんだ」と、勝手に思い込んでしまったのが原因です。子どもは遊びの形として、自分の役割が犬であることに納得していたのです。「早く散歩に連れてってよ」などと、威張っているのは犬であることに気づかずに声をかけたために、遊びを中断してしまいました。
その役割に対して子どもがどんな気持ちでいるのか、その内面に気づくことがとても大切です。遊びが活発に行われる子どもの集団では、小さくても「手加減する」ことを学んでいます。一見すると相手の子を邪険に扱っているように見えても、実は本気になっているわけではなく、ちゃんとかばい合う姿もあるのです。
もし子どもが泣いているのを目にしたとき、冷静に受け止めるか、あるいは「かわいそう!」とすぐ声をかけるか、どちらでしょうか。私たちはどうしても、後者になりやすいと思います。しかし泣いた後の子どもがどう行動するか、じっくり見極めてから対応の仕方を考えたいものです。そうしないとせっかく自分で何とかしようとする気持ちを、摘んでしまうことになりかねません。年長はもちろん年少の子どもたちでも、自分で何とかしようする力は日に日に育っています。

遊びを通して心が育つ
遊びを通して心が育つ

大人の仕草が学びになる

その一方で差別につながるいじめには、しっかり対応していくことが大切です。
「くさい」「きたない」と言って、友だちと手をつないだり隣同士に座ったりするのを嫌がる子どもがいました。はじめは1人だったのが、すぐに2~3人に広がりました。ついしてしまいがちなのが「そんなこと言っちゃダメ!」と、叱るような口調で注意する対応です。しかしよく考えると「くさい」「きたない」は差別の根源です。口で注意してすませるような、簡単なことではありません。
最近の子どもは「そんなこと言ってもくさいものはくさいじゃない」と反論します。そうなのです。「くさい」「きたない」と感じるのは、あくまでも理屈を超えた生理的な反応です。ここで大切なのは、私たちの毅然とした態度でしょう。「くさくったって先生は◯◯君好きだなあ」とみんなの前で◯◯君を抱きしめてあげたり、汚れたときは「いっぱい遊んできたね」と着替えを手伝ったりするのです。そんな私たちの行動や態度、つまり大人の仕草を見て、子どもたちは差別はいけないと学んでいくと思います。

体験的に学んでいく幼児期

みんなといるから助け合える
みんなといるから助け合える

本園の子どもたちの姿には、心の育ちを感じる場面が多く見られます。誰かの困りごとに気付いてあげて、手助けをするのです。例えば、こぼれたごはんを一緒に片付けたり、遊びまわった後は汚れをきれいにしたり……。こうしたことが、自然体で日常的に繰り広げられています。相手の気持ちを考えられるような体験を、遊びを中心とした生活の中でたくさん積み重ねているのです。こうした学びがいじめを防ぐとともに、いじめをのりこえていくことにもつながっていくと思います。

ホームへ先頭へ前へ戻る